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音声で聞く
自転車日本一周の思い出
1966年(昭和41年)8月9日(晴)
旅と人生の分水嶺の鹿児島垂水
 たった一度の人生だから誰もが悔いなく生きたいと願います。しかし、その願いは容易に叶うものではない事を多くの人はやがて知ります。でも、欲を捨てて 心静かに見つめ直すと自分の思いが満たされていることに気が付くことがあります。その気づきは歳を重ねてから訪れる場合が多いようです。
 日本一周を目指した旅で岩手に帰ると言いながら日本列島をどこまでも南下していましたが、一転、きびすを返して北帰行に転ずることになるのは、九州南端の鹿児島の垂水からでした。その地を訪れる切っ掛けは、大阪でお世話になった小学校の先生が、「夏休みは実家の鹿児島の垂水に帰っているから必ず寄りなさい。」と声を掛けて下さったからでした。
「鹿児島へはいつ頃になる?」
「大体、8月中旬の予定です。」
「待っているから、必ず寄れヨ。」
日本地図を描くように走ると言う目的はありましたが、具体的な経路は決めていませんでした。先生の言葉は遠くの灯台にあかりが点ったように明確な目標になって力強い励ましを感じました。「何がなんでも 垂水には行くぞ。」と勇気が湧きました。
 九州に入ってからは毎日が炎天下で、最高気温が40度と言う日もあって、ヒッチハイクの大阪の大学生が熱射病で死亡したニュースも流れていました。私は朝早くから走り出し、日中の2時頃はお宮や公園の木陰を見つけて昼寝をするようにしていました。水筒の水がなくなり、公園や民家の庭に井戸や水道の蛇口を見つけると「スミマセン。お水下さい。」と断って 頂く最初のひと口の水は、この世のものとは思われないほど美味しく感じました。ふた口目は、普通に戻っていましたが、いくらでも飲める気がしました。地元のカタが「こんな暑い時に走って大丈夫か。」と心配して下さいましたが、「自転車は走っていれば風が吹いているようなもんです。お水、ありがとうございました。」と答えて、すぐ走り出しました。自転車から降りて止まっていると、熱風の吹き出す煙突に入っているような状況だったからです。
 延岡から宮崎を通って日南町までの100キロを1日で走破し、都井の岬を廻って一泊し、8月5日の昼近くに垂水に到着しました。住所を訪ねてお宅の前に立ちましたが、戸締まりが施されていました。お留守だなとあきらめて戻ろうとした時、一陣の風が吹き、玄関先の張り紙がめくり上がるのが見えました。近づいて行って見ると張り紙に「佐藤さん、ようこそお出で下さいました。お墓参りに行って来ますので、帰らずに必ず待っていて下さい。」と書いてありました。何という心遣いだろうとジーンと目頭が熱くなりました。日陰にたたずんでいるとご家族が戻って来られて、来訪を心から喜んで頂きました。それから2日間、江ノ島と言う海岸で海水浴を楽しませて貰ったり、二十歳を過ぎるまで酒は口にしないと決めていましたが特産の焼酎を味わったり、力の付く美味しいお料理を頂いたり、家族あげての歓迎を頂きました。
 先生のお父さんは法律事務所を開いておられました。そのお部屋の壁には「分水嶺」と言う翻訳詩の額が掲げられていました。その内容は、ロッキー山脈の天空から降ってきた雨粒は風のほんの小さないたずらで太平洋の水となるか、大西洋に流れ落ちるか運命が決まると謳ったものであった気がします。私の旅は垂水が南進から北進に転じる分水嶺となりました。その詩に出会うことになった運命に感謝をしました。充分な休養を取って気力も体力も充電し、2日後、たくさんの励ましの言葉を頂いて、日本列島の南の端から母が待つ本州の北の端までの故郷に向かう旅が再開されました。








目明かし捕り物控え:文責佐藤
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